ゆーとの読解力

片田舎の物書きになることを夢見る童顔

【夏休み・冬休み】勇気を培うために青少年に勧める2冊の本「十五少年漂流記」と「飛ぶ教室」

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子どもを図書館に連れていくと、

「さて、何を読ませようか」

と、色々本を手に取って考えてしまいます。

  • 本人の性格
  • 年齢
  • 興味関心
  • 将来学ぶべきことの先取り等々…。

でも、いずれ読めるようになったら、ぜひ読んで欲しい本があります。

皆様も、お子さんがいらっしゃる家庭なら、書店でも図書館でもいいので、ぜひ読ませてあげてください。

どんな本なのか。

「もし、あなたがあなたの子どもに勇気を与えたいと願うなら、この本を読ませなさい。」

※何故か和訳調(笑)

本日は、

「勇気とは何か」

というテーマで、私の心を育てた2冊の本をご紹介したいと思います。

海外の児童文学

遡ること少年時代。

私は2冊の児童文学に出会いました。

いつの間にか家にあったので、たぶん、親が買っていてくれていたのでしょう。

有名なこの2冊の本は、私の人生において、強烈な指針となりました。

十五少年漂流記二年間の休暇

十五少年漂流記は、1888年初版、フランスのジュール・ヴェルヌの名作です。

さて、十五少年漂流記ですが、その名のとおり無人島に難破した15人の少年が、島脱出のため、冒険し、工夫し、互いに助け合い、何とか生きていくというお話になります。

少年たちが、嵐の大海原を走る帆船を必死に押さえつけ、何とか転覆しないよう奮闘する導入部分から始まり、やっとのことでたどり着いた無人島で、探検、狩猟、住居の確保と、生々しくも溌溂とした少年たちの姿が描かれています。

展開は目まぐるしく、読者を飽きさせません。

けれども、15人もいれば、そして生きるか死ぬかの過酷な環境に放り出されれば、子どもでなくとも意見は割れ、グループは分裂してしまうというもの。

実際にグループが割れるのは終盤になりますが、しかし、やってきた海賊と戦うため、グループは再び一つになり、最後には島を無事脱出するという流れです。

十五少年漂流記は、四角いコンクリートで囲まれた私たちの現代の生活に、動物の気配、緑と潮風のイメージと、そして活気と興奮を与えてくれると思います。

さて、ジュール・ヴェルヌの名作といえば、他に海底二万里がありますね。

海底二万里」というタイトルでピンとこない人には、「ノーチラス号」「ネモ館長」といえばわかりやすいかもしれません。

ファイナルファンタジーⅢにノーチラス号が出てきて興奮したというのは、ここだけの話だぞ…!」

…失礼、脱線しました(笑)

飛ぶ教室

気を取り直して。

1933年初版、ドイツのエーリッヒ・ケストナーの名作です。

クリスマス前、冬休みに入るまでの学校が舞台で、子どもたちは勇気と友情を両手に、正義とは何かを追求し、人として成長していく、という物語です。

舞台は舞台から始まり、(ややこしい。)

次いで学生同士の殴り合いへと続くのですが、まあ、「殴り合い」と聞くと、

「何て前時代的な。」

なんて、感想を抱く人がいるかと思いますが、しかしそれはそれで、世界観(?)として飲み込みつつ読んでいくと、何となく「正義とは何か」ということが、少しわかった気になってきます。

正義の厳しさの裏には、やっぱり正義がもたらすやさしさがあり、それは憤りであったり、嘆きであったり、人と人とが励まし合う源泉だったり、社会の冷たさであったり、しかしそこには確かに人のぬくもりが残っていたりと、読み終わった後には静かな興奮が残る物語となっています。

余談ですが、ケストナーは、

勇気のある人々が賢く、賢い人々が勇気を持った時、はじめて人類の進歩は確かなものになるのだ。

と語っていますが、当時の時代背景を思ったとき、私にはそれは、

「勇気と賢さにより人類が進歩することが、正義ということなんだ」

と書きたかったように、勝手に思っています。

つまり、

「正義とは何か。

―それは人類の進歩である。」

「人類の進歩はいかにしてなされるか。

―それは、『勇気と賢さ』によって達成される。」

ということで、

「勇気と賢さを伴わない人類の前進は、とても『進歩』と呼べるものではない」

と、言いたかったのではないかと思っています。

勇気とは何か。

勇気とは、「意思」と「行為」が同居している言葉である。

さて、この2つの作品を大人が読んだとき、その共通項として、登場人物の信念の土台に、現代ではあまり描かれることのなくなった「勇気」というものが支えになっていることに気づきます。

「勇気」って、よくよく考えると面白いなと思います。

勇気とは、前に出る意思と行為であり、そして、「勇気」という言葉自体は、確かに感情をイメージする言葉なのだけれども、実際には行動が伴わなければ表現することができない、という不思議な特徴を持っています。

つまり、勇気とは、意思と行為が同居している言葉というわけです。

例えば、「喜怒哀楽」ですが、これらは別に感情だけで、行動を伴わなければ表現できないということはありません。

* 主人公は内心喜んだが、しかし軽く見られてはいけないと思い、平静を装っていた。

書くことはできますが、

* 主人公は内心では勇気を持っていたが、しかし、それをずっと隠していた。

とは書けません。

「なんだそりゃ、それってそもそも勇気って言うの?」

って、なりますよね。

勇気は褒められる対価ではなく、それによりコントロールできるものでもなく、ただ鍛えていくものである。

よく、「勇気」と双璧を成す言葉で、困難を打開する力「知恵」があります。

「知恵と勇気」というやつです。

「知恵」というのも、やはり「結果」というものを意識した言葉であるように思いますが、しかし、知恵というのは、「知識と経験」により磨き上げていくことができる一方で、「勇気」というものは、どのように鍛えていけばよいのか。

叩けば鍛えられるものなのか。走れば鍛えられるものなのか。

現代では、「知恵」は学び、磨けば身につくものだと割と身近なものになってきた反面、「勇気」を発揮するというのは、少し、遠ざかってきたように思います。

国家に、大企業に、長いものにまかれろという文化であれば、一体全体、私たちはどこに勇気を持ち出せばいいのでしょうか。

何となく単なる道徳であるということに留まっている傾向があり、誉められる対象となっているだけであるような気がします。

  • 電車やバスで辛そうに立っていた人に、勇気を振り出して席を譲った。
  • その人が困ったように立ち尽くしていたので、勇気をもって声をかけた。

自己犠牲(自分の時間や労力)を払って、他者や社会に還元する行為として現代ではそれを、優しさだ、勇気がある人だと褒めたたえるわけですが、しかし、勇気の本質を示すには至らないのではないかと思うのです。

また、現代では、何かとコントロールすることがブームで、勇気もコントロールするべきだという考え方もあるのですが、私は果たして、勇気それ自体を道具扱いしていいのかなと思うのです。

それは、そもそも「勇気」というものなんだろうかと。

勇気とは、「前へ出る意思と行為」であり、それでいくと、まあ確かに、単に心の持ちようというのであるなら、コントロールできなくもないのかなと思わないでもないのですが、人は勇気を出すその瞬間に、人は誉められることを望んで勇気を出している、ということはほとんどないと思うのです。

つまるところ、

つまるところ、私は、勇気とは、正義感とか、友情とか、経験とか、そういうものが土台にあったとき、始めて振り出されるものだと思います。

  • 正義感だけで主張を展開する人に、勇気があるとは言いません。
  • 友情厚い人だから、勇気があるとは限りません。

勇気は感情を土台とするものだと思います。

勇気は様々な感情から湧き上がってくる想いを土台に、強く行動するものであるからこそ、尊いのでしょう。

さあ、勇気を鍛えましょう。

正義感と友情、その他もろもろの感情を育む心を鍛えましょう。

この2冊は、あなたに、そしてあなたの子どもに勇気を持たせるための一歩に、勇気ある行動を取らせるための一歩になるはずです。

活気と興奮、そして静かな感動に包まれてしまうことをお約束します。

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