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【異論】足利義昭から見た織田信長~「室町幕府」というシステムではなく「戦国大名」というシステムを初めから選んでいた信長~

たまには歴史に関する考察を書いてみようと筆をとってみた

少し、歴史に関する考察を書いてみようと思います。

彼の有名な、織田信長のことです。

信長は尾張(今の愛知県)出身の、当時、最も力のある戦国大名の一人でした。

日本の歴史を説明するとき、年表では「安土・桃山時代」なんて言ったりしますが、その「安土」とは、信長の居城の一つになります。

織田信長は、

彼の飛躍は、この室町幕府十五代将軍、足利義昭なしには語ることはできません。

この時代、多くの大名が将軍を後ろ盾に日本一の権力を握るべく上洛を試みましたが、その多くが政権を維持できず、地方で蓄えた小金を中央で散財するかのように力を失い、敵対勢力の台頭に都を後にせざるを得なくなりました。

しかしながら、信長だけが敵対勢力を退け、自らを頂点とする独自の政権を打ち立てることに成功しました。

何故、彼だけが政権を維持できたのか。

そんな問いについて、今日は語ってみたいと思います。

そもそも中央進出すると、何故その勢力は凋落するのか。

そもそも、どうして中央進出すると、その大名の勢力は衰退するのでしょうか。

理由は二つあります。

  1. 中央で決戦を繰り返すことにより、戦力を著しく消耗してしまうから。
  2. 大名が自分の領土を留守にしている間に、家臣や国人たちが自由に振る舞い、結局、大名が彼らをコントロールできなくなるから。

前線である中央では戦力を減らし、根城である地方では戦力の補充ができないとあれば、なるほど、衰退するしかありません。

では、信長は、この問題をクリアしたのか、ということですが、彼は、それまでの勢力とは異なり、全く別の角度からこの問題を解決してしまいます。

信長は、中央進出の「目的」と「手段」を入れ替えた。

多くの大名が、中央進出により副将軍や管領として全国支配を夢見る中で、信長だけは異なりました。

信長は、まず、

「義昭を将軍にするぞ」

と触れ回って仲間を集め、大義名分を主張することで敵対勢力からの侵略を回避する環境を作り出しました。

これにより、信長は十分な兵力を滋賀県南部を治める六角氏に当てることができ、六角氏を駆逐することで、京都への道ができました。

「さあ、いよいよ京への道が拓けたぞ」

とは、信長は考えませんでした。

次いで、京都で義昭を将軍にさせまいと歯向かう勢力を駆逐すると、さっさと本拠地である岐阜県へ戻ってしまったのです。

これが意味するところは何なのか。

答えは、

「信長は、都そのものには、ほとんど興味がない」

ということだと思います。

国都としての京の意義は、既にほとんどないことを信長は感じており、代わりに、京へ繋ぐ道である滋賀県南部の他、近畿の一部を勢力下に加えることに成功しました。

つまり、信長からすれば、勢力拡大のための中央進出であり、戦国大名らしい発想から上洛したのだということだと思います。

信長と義昭の関係は、形式的にはともかく、実際には明らかに信長が上位にあったと考えるのが自然

さて、信長と義昭の関係はどのような関係だったのでしょうか。

一般的には協力関係だったとされています。

「そりゃ、義昭が将軍なんだから、身分で考えたら、義昭が上で信長が下ってことでしょ?」

という先入観がありますが、これは、歴史的結果からの推測でしかないように思います。

後に義昭が信長に対抗し、挙兵することを考えたとき、多くの歴史小説家が、

「将軍義昭が、奉公人であるはずの信長の横暴に耐え兼ね、挙兵したのだ」

という、「大臣に実権を奪われた悲劇の国王」のように義昭を描いていますが、おそらく、そんな単純な話ではなかったのではないかと思います。

少なくとも、義昭は信長のおかげで将軍になったとはいえ、自分の権威だけでは、戦国の世を生きていくことすらままならないということくらい、わかっていたのではないかと思います。

まず、当時、織田信長という存在はいかなる存在だったか、というところから考えてみましょう。

実は、当時の信長の勢力は、巨大すぎるほど巨大でした。

上洛(※京に上ること。)前でさえ、尾張約60万石、美濃約50万石、北伊勢約25万石(伊勢50万石として、その半分と換算。)で約135万石。

さらに同盟者の徳川家康三河約30万石、浅井長政の北近江約40万石(近江80万石として、その半分と換算。)を加えると約200万石の超大大名でした。

全国で約2,000万石なので、信長の命令で当時の日本の国家予算の最大10%を動かすことができたということになります。

信長はその後、足利義昭とういう大義名分を手に入れて上洛し、山城や大和の国を押さえ、勢力の伸張はどんどん加速していきます。

はっきり言って、単に蔑ろにされたくらいで信長に逆らうことが難しいことくらい、義昭にもわかっていたでしょう。

基本的には、戦国時代ですから、より実力のある人間の方が指示を出すわけで、それでいくと、両者の間には明白な力関係がありました。

義昭は、自分の方が格下であることを、十分自覚していたのではないかという説を唱えてみる。

信長は義昭に対して、あれをしなさい、これは駄目ですと何度も指示を飛ばしています。

歴史家は文脈と身分を鑑みて、義昭と信長の位置づけを定めようとしていますが、本当は逆で、信長の方が、第三者から見てもわかるほどに上位にあったのではなかったのではないかと思います。

そして、その二人は、第一次信長包囲網にあっては、完全に一体として将軍義昭新政権樹立のため、義昭を認めない敵勢力の駆逐に奔走していました。

三好三人衆は義昭勢力に敗走して京を追われた立場ですし、朝倉義景の場合は、もともと足利義昭は朝倉家を頼っていたのに、織田家に取られてしまって面白くないという思いがありました。

その他、上洛時に撃破した六角家の残党や伊勢の反対勢力、新興勢力である信長に既得権益を奪われまいとした寺社勢力(主に石山本願寺を中心とする一向一揆。)の抵抗に、信長は次第に劣勢に追い込まれていきます。

義昭は、信長への予想以上の抵抗にひるみ、おののき、政権安定のためには、次第に和解への道を模索すべきと考えるようになります。

信長は各地で窮地に陥り、不利を悟ってやむを得ず敵対勢力と一時講和するという道を取らざるを得ないわけですが、足利義昭としては、信長がいつ大敗するか、気が気でなかったでしょう。

なんせ、彼自身は、信長勢力の旗印なのですから。

信長が負ければ自分も滅びることがわかっていたため、信長程強い精神力を持っていなかった将軍義昭は、自身の持つ外交力によって、内々に融和政策を訴えるようになります。

「信長殿、もう戦いをやめましょう。」

そんな、足利義昭の平和的というより悲観的な嘆願を、信長は一蹴します。

講和をするというのは、信長の味方になるということなのですが、

  • 朝倉家は織田家を見下しているから絶対に傅かないし、
  • 浅井家は裏切り者であり、
  • 六角家はその領土を接収したし、
  • その六角家を支援している伊勢の諸勢力は平定すべきだし、
  • 本願寺との戦いはきちんと決着をつけておかなければ信者は獅子身中の虫であり、放っておけば今後の作戦の足かせになるだろうし、
  • 武田信玄や大毛利家などは信長の勢力の伸張に明らかに警戒心と敵愾心を持っているし。

信長の立場からすると、中途半端のまま放っておくと、どんどん追い詰められていくのは明白でした。

「全部を相手にするなんて、どう考えても不利なので、戦いはもうやめませんか」

という義昭の諫言を無視し、信長はあちこちで戦争を仕掛けては比叡山焼き討ちなど、戦線を拡大させていきます。

しかし、将軍になった義昭からすると、信長は新政権の安定に尽力すべきであって、逆にあちこちで戦争していいものではありません。

  • 幕府というシステムによって政治の安定を図りたい将軍義昭。
  • そんなの知ったことか、今は戦国の世だと、戦国大名としての視点で戦争を続ける信長。

せめて将軍の権威を、信長がわずかでも関心を示していれば、義昭も何とか織田陣営としての自分の価値を見出せたかもしれませんが、信長自身が一時講和の道具にくらいにしか思っておらず、義昭は完全に自分の価値を見失ってしまいます。

将軍の御謀叛は、「不満」からではなく、「不安」から出たもの。

「泰平の世が来たとき、自分はどうなるのか。」

当時、信長は自身の根拠地を「岐阜」と改称していましたが、「岐阜」の「岐」は「岐山」のことであり、ここから起こった周王朝は、殷王朝を滅ぼし、政権交代を興しました。

そして、その時の王の名前が「武王」

信長が好んで使った天下布武

もちろん、今日ではこの「武」という文字の意味の解読も進んでおり、「武王」を指すと主張する歴史家は多くなはいと思いますが、しかし、信長が持つ「武」という文字のイメージが、武王の如く世を改め安んずることを指すのであれば、義昭の立場はどうなるのか。

信長はそのことについて何も具体的なことを言っていませんし、自らを武王とし、天皇や将軍を殷王朝として見ていたという事実もありません。

しかし、信長の御代が来た時、自分はどうなるのか。

―将軍(義昭)というものは価値がなくなる。

これは、織田家の中で、義昭の立場が軽くなることを意味します。

実際、義昭の外交は信長が求める以上のものであったようで、講和という一時停戦のためにのみ外交官として敵勢力と調停してくれれば良いものを、「将軍様将軍様」と献上品まで送られてくるような関係にまで発展してしまっていることに、信長は不快を感じていました。

「阿呆が。

それは敵の離間策ではないか。」

義昭の知恵のなさに、信長は苛立っていたに違いありません。

「なんと、信長殿は怒っておられるのか。」

義昭は、信長陣営の旗印として諸勢力から狙われる一方で、他方では、実質主人である信長の期待に応えることもできず、内外に悩みを抱えたまま日々を過ごしていました。

通常であれば、信長の疑いの目は、単なる将軍職に就いている者への監視の目として互いに暗黙の了解の範疇でした。

義昭も歴史的に現実的にそれを受け入れなければならないことくらいわかっていたでしょう。

しかし、信長が人生で二番目の危機(※一番目は桶狭間の戦いだと思います。)を迎えたとき、義昭は我慢できず、現状を打破する手段に出てしまいます。

きっかけは、徳川家康が三方ヶ原で武田信玄の誘いに乗って大敗したことで、信長包囲網の防衛線の一角が崩壊してしまったことでした。

ひたひたと進軍する信玄。

信長包囲網形成以降、信長最大の危機に、各地で動揺が走ります。

信長としてはその引き締めにやっきになり、義昭にはその離反する原因となったと言われる「十七条の意見書」を送りました。

それは「諫言」という体裁が取られながらも、実際には、

「お前は俺の味方だよな?

最近、俺がやれと言ったことをやっていないようだけれども、俺の命令をちゃんと聞くよな?」

という念押しの内容であり、義昭を試すような文書でした。

信長としては自勢力引き締めの一環のつもりだったでしょう。

しかし、皮肉なことに、この「十七条の意見書」は全く別の角度から義昭に読まれてしまい、義昭を信長からの離反、信玄側へと走らせることになります。

「信長はこのような文書を自分に送らざるを得ないほどまでに追い詰められているのだ。」

そんな、不満というより不安な思いが、義昭を後押ししました。

おそらく、信玄のことですから、義昭も調略の対象になっていたことでしょう。

義昭が信玄を動かしたのではなく、信玄や毛利家の調略が義昭を動かしたと見る方が正しいような気がします。

きっと、

「あなた様は将軍なのです。

一旗揚げれば周囲の豪族はこぞって味方に付きましょう。

彼らをまとめつつ、信玄の上洛を待つのが上策です。

十分に、勝てる戦いです。」

などと、おだてられたに違いありません。

「それならば」

と義昭は遂に重い腰を上げました。

将軍様の御謀叛-。

謀叛というのは、本来、格下の者に使う言葉ではありません。

そして、多くの小説は義昭はこの時、信長のあまりの物言いに激怒し、日頃の不満も相まってとうとう離反する、という形で描かれていますが、実際には、かつてないほどに信長の窮地を感じ、心中できないという気持ちで信玄に呼応したのではないかと思います。

「信玄殿、義昭は西の反信長勢力をまとめるので、信玄殿は東から、共に信長を挟撃しましょうぞ!」

そう意気込んで旗揚げしたものの、武田信玄は陣中病死し、完全に見当はずれの反乱となってしまいました。

信長としてもこんな状況下で敵を作るわけにはいかないと講和を持ちかけますが、信長の性格から裏切り者の自分を許すはずはないと、義昭は抗戦の道を選び、室町幕府は遂に滅びることとなりました。

武王信長

足利義昭は毛利家を頼り、京を後にします。

後に残された信長は、この後、西へ東へ新政権樹立に奔走することになります。

政権樹立の旗印はなくなりましたが、信長の勢力は大きく伸長し、信長自身が旗印になれる時代が、すぐそこまで来ていました。

各地の勢力を潰し、力をつけた信長は、義昭という殻を脱ぎ捨て、信長自身が羽根を広げます。

それは、彼が、新時代を作るという意味の「天下布武」を掲げたときから抱いていた選択肢の一つでした。

彼こそが京での政権を維持できた理由として、本来、「武士にとって正義であるべき室町幕府」を取り潰すという選択肢が始めからありました。

  • 室町幕府」というシステムを乗っ取るのではなく、
  • 戦国大名」というシステムを敷くということ。

時代を革めるということ。

もし、信長が自分の行動を「武王の偉業」になぞらえていたなら、そもそも信長は既存の官位・役職はむしろ潰すべき対象であり、したがって、義昭のことなどどうでもよく、さらに言えば、朝廷さえもどうでもよかった。

信長が生きていた時代からすると、周王朝は昔すぎるので、政治理念まで見習おうとは思わなかったでしょうが、しかし、「岐阜」に「天下布武」から連想される言葉として、「周の武王」というキーワードは、信長という人物像を語る上でのひとつの材料として、やはり考えられるべきだと思います。

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