ゆーとの読解力

片田舎の物書きになることを夢見る童顔

【難読】「読解力」とは何なのか。なぜ「読解力」という言葉をブログの名前に選んだのか。

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私が、このブログを「読解力」と名付けた理由なんて、誰が興味があるのかと思いますけど、最近、色々なニュースを見て思うことがありましたので、少し書こうかなと思いました。

「読解力」を選んだのは、商業的な理由から。

このブログのタイトルを「読解力」と名付けたのは、実はシンプルに商業的な理由になります。

開設にあたり、最初に思ったのは、

「やっぱり、検索して欲しいな。

そして、検索されたら上位にあるといいな。」

ということでした。

SNSもほとんどやっておらず、身近な人にも教えたくない恥ずかしがり屋さんのブログですから、検索数がビューンと伸びるわけもなく、素人が5分ほど悩んで頭に浮かんできたのは、

「検索して欲しい」=言葉として存在しなければ検索さえしてもらえないので、造語は駄目。

「検索されたら上位にある」=普段ほとんど使わない言葉だと、たまたま検索されれば上位にヒットするのではないか。

というアイデアでした。

なので、完全に商業的な視点でこのタイトルをつけたのですが、しかし、タイトルに選んでしまった以上、「読解力とは何か」という問いに対して答えないわけにはいかない。

本日は、完全に後付けになってしまいますが、「読解力と名付けたことについて、どんな意味があるのか」という解説をしていきたいと思います。

要するに、ブログへの意気込みを語ります、ってことですね。

そもそも「読解」って?

さて、そもそも「読解」とは何なのか。

試験問題の場合はわかりやすく、「言い換え」という手法が取られています。

「A=Bという文章があり、B=Cという文章があり、D=Eという文章がある」

ならば、

「Aを言い換えたとき、C、D、Eのどれに該当するか」

という問いに対して、

「C」と回答(※A=Cと回答)したとき、読解は成功したとみなされる。

ということですね。

Aとは何か、ということはAを言い換えた場合、意味合いとして最も合致するものを選べば正解です。

このため、通常、試験会場では、文章に二重線や並み線、あるいは文章ごとにABCと割り当てていくことで、キーワードがどのようにカテゴライズされているのか―この文章が何の言葉・文章の説明をしているのか―整理することで読解が比較的簡単になるわけですが、

しかし、この例をそっくりそのまま当てはめると、「ゆーとの読解力」は、

「黄昏ゆーとが、世の中のありとあらゆる事象を言い換えてみようとするブログ」

と、直訳されてしまいます。

…これはこれで何だか面白そうですけど(笑)

もちろん、そんなつもりで書いていません

ということで、試験については上記の手法で読み進めていくことになりますが、結局これは「読解力」の本質ではないということですね。

「言い換えが、読解の本質ではない」といういう点について、例を出すと、

「黒である」

という言い換えに対し、

「白ではない」

というのは、確かに正解であるけれども、「読解」の本質を突いたものかと言えるかといえば、ほど遠い

ということですね。

「読解」の本質

さて、もう一度、先程の例を振り返ってみましょう。

「黒である」

ということは、

「白ではない」

という回答について、私たちはこう思います。

「…それはそうだけど…それで、何?」

そうです。

これが当然の反応であり、これが答えになります。

読解したいと思うとき、その文章を何度も読んでも、人は正確に解すことはできないのです。

その文章の外に出なければ答えはないのです。

結論:読解の本質とは「言外に解釈する」ということ。

すなわち、「言葉の外に何があるのか」を読み解く力

ということになります。

ありとあらゆる文章には文脈があり、文脈の外には前提や背景といったものがあり、誰が、誰にどんな状況で、どんな想いで伝えたかったのか。

すなわち、「読解」とは、「その文章は、その文章の外に出なければ解釈できない」という、当然といえば当然だけれども、それ自体が難読で難解なお話、ということになります。

読解とは、読解すべき対象より、目を外にそらさなければ何もわからない。

読解とは、その文章に目を凝らしながら、言外を探らなければならない。

つまり、前提や背景を考察しなければ、その一文に固執するだけでは、理解することなどできない、ということです。

すなわち、

一歩下がる力であり、一歩近寄る力であり、

飛躍する力であり、符合させる力であり、

省みる力であり、推し量る力であり、

俯瞰する力であり、超越する力、

そう言ったものが読解力、ということになります。

人類の土俵は当然にして同じであるという無自覚は「危機」だと思う。

現代では、人から人へ伝えるはずの言葉が、様々な媒体にあまりにも額縁通りに張り付けられており、それそのものがイデオロギーを指し示すようになっています。

言葉は正確に解釈しなければ、また誤解がないように話さなければならない、

というのは、裏を返せば、前提や背景は必要ないと言うことであり、人類の前提や背景は共通しているという恐るべき無自覚さがあります。

しかし、前提や背景のない文章は、人間は、いないと思います。

無自覚のうちに読解力が必要のない社会へ向かっていること。

私はこれを「危機」だと感じている、ということで、今回の難読文は、一度締めさせていただきます。

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